高梨豊 光のフィールドノート

k-michi2009-03-01

東京国立近代美術館 企画展ギャラリー(1F)
1月20日(火)〜3月8日(日)
http://www.momat.go.jp

1960年代末に中平卓馬森山大道らとともに写真同人誌『PROVOKE』を舞台として時代の先端を疾走。写真における表現の根拠を先鋭に問う高梨豊の個展としては過去最大規模のもの。ちょうどギャラリートークの時間に来館した。方法論を駆使している写真家なので、説明を聞けた方がよいと思った。学芸員さんは静かなトーンながらも熱心に語りとても楽しめた。

デビュー作の『somethin’ else 1950s-1960』から、『地名論 1994-2000』までを主に案内してくれた。被写体に向かうスピードを横の軸、活動年代を縦の軸として、各シリーズを配置したダイヤグラムが配られた。

トラックの荒々しい車体の背後で写っている広告文字。そこにはモノとしての物質感と同時にメッセージを伝えてしまう言葉が並列している。被写体へ向かう写真家の意思とは離れた所で写ってしまう現実。既成にとらわれない視点が斬新さを出すデビュー作。やがて加速する時代の空気を追うように被写体へ向かう速度は増し、『都市へ 1960s-1974』においては斜めの構図やブレ、走る車内からとらえた写真など、スピード感が強調されている。この辺り、ロードムービーのようにカッコ良い写真ばかりで、森山大道とも近い。

写真は時代性を切り取る装置であり、定点からドッシリと構えているだけでは当時の空気は写らない。ハンターとして被写体を捉える機敏さの中へ、作家性を獲得すると共に加速して行ったようだ。そうやって見ると大変分かりやすく変化している。そして70年安保、浅間山荘事件など、時代の終焉と転換を象徴する大きな出来事と共にその手法はがらっと変わった。

『町 1975-1977』は大判カメラとカラーフィルムを用いた都市へのアプローチで、旧い町並みの残る下町を撮影したシリーズ。当時感度の低いカラーフィルムで長時間シャッターをひらき、モノへ対峙していく。走りながらシャッターを押し、作家性を前面へ出した時期と比べ、モノが主役となり個は抑えられ、考察を深めていく内面を感じさせる。『新宿 / 都市のテキスト 1982-1983』によって文脈を追う視点は深みを増す。

都市を追い続け時代を体現させて来た写真家。彼が探る文脈の先には、都心へ残る土着信仰の姿が写る。やがて日本全国へ広がっていく行脚的な考察は、『初國[はつくに] 1983-1992』へ結実。このシリーズは写真家にとって大きな転換であり、その10年に渡る歩行の軌跡を伝えようと、30mに渡り歩かせるよう展示した。そう学芸員は熱く語る。

クライマックスは『地名論 1994-2000』で、彼の深い読みは頂点に達する。バブル景気の時代を通過して「界隈」のまとまりが失われた東京で、旧い地名を頼りに「垂直の歩行」を試みたシリーズ。2枚セット、ピーカン天気、人を入れる。そんなルールで撮影された。「麻布」における超高層とお墓の対比から、都市における断層、つまり連続した時代の流れを断ち切る姿を見る。「青梅」における境内のない神社からは、携帯電話やネットの普及によって、場所から切り離された肉体が浮遊していく様を見る。この辺りだんだん彼は加速していった。

1時間を10分オーバーして彼のツアーは終了。しかしその後、熱心な若い青年の質問によって語りは止まらないのだった(続く・・)。いや、大変楽しかったですよ。それにしても、映画のようにストーリーへ惑わされず、写された一瞬の中へ存在するモノ自体へ想像力を働かせる写真は違った意味で面白い。そして誰でも気軽に撮れる装置を使いながら、未だに現地へ出向き直に被写体と接する肉体が必要な写真の不自由さが面白い。