水族

水族 (Coffee Books)

水族 (Coffee Books)

まず私が50枚ほどの短篇を書きます。その文章を読んで、今度は小野田さんがテンペラの絵を描き、私がそれらを見てさらに小説の細部を膨らませ、完成させたのでした。私の頭の内部の、まだイメージになっていないものを、絵として描いていただいたような、不思議な体験でした。(「言ってしまえばよかったのに日記」より)

絵本のようなやさしい雰囲気の漂う小説だが、まるで僕らが環境問題に対処できないまま、近い将来、地球が水没した先に、人類がなおも強かに水棲人として生き延び、わずかな罪悪感からいたずらに陸棲人である主人公を生き延びさせしかもその姿を動物園の猿のごとく観賞する。そんな現実を痛烈に批判したようなSFではないか。

けれど終盤までじわじわと主人公を脅かす影がチラチラかすめるのに、描かれる世界はとても幻想的で艶かしく、決してノスタルジアとは違う魅力で満ちている。やがて水が飽和状態になり、主人公を襲うが、それは解放への合図という、まるでニルヴァーナのように(以下は主人公が見た景色の感動的な描写)。

極楽鳥が薔薇のつぼみを食って、おつむに薔薇の花を咲かせた。食われたつぼみの跡にハチドリが極彩色の糞を落とし、サイケデリックな花が開く。

それは太陽だった。太陽までもが、水中で光っているのだ。その表面は金色に毛羽立っていて、よくよく見るとマリーゴールドが咲き乱れている。

歩いても 歩いても

歩いても歩いても [DVD]

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是枝裕和が撮り続けてきたドキュメントテイストの演出も、ここまで完成されて来たかと、久しぶりに観て感動した。カット割もセリフの切り方も、とても自然でその場へ居合わせたかのようだ。

長男の命日に、久しぶりに実家に集まった家族。父とそりの合わない次男は、失業中ということを隠しながらの里帰りで、子持ちの再婚妻を連れている。長女は持ち前の明るさでぎこちない父と息子の会話を取り持つ。料理に腕を振るう母。家長としての威厳にこだわりつづけている父。

少し大げさな設定はドラマとしてはちょうど良く、会話の中へ時より見える家族同士の本音がとても自然に響いてくる。姑と小姑の間で気を使う嫁の姿を見つつ、自身も父への抵抗を隠しきれない次男。同居を提案しつつも気持ち良く受け入れようとしない母の単調な会話につきあい続ける長女。

決定的な本心は言葉にせず、うっすらと気を使い続ける家族間の空気。一見すると大人同士の世間話でありながらも、節々に親と子、親である子、子となった親子など、それぞれの役割を演じていることへ自覚したりさせられたりする家族間の空気。

一泊して帰るという時間の中へ、わずらわしかったり、うとましかったりするそんな作業があって、あっという間に帰りのバスは来る。車内でほっとする次男の表情へ、家族への愛おしさを感じるこの共時性。映画の達成した時間を思う。

パンク侍、斬られて候

k-michi2009-01-24

原作:町田 康
脚本・演出:山内圭哉
出演:山内圭哉小島聖中山祐一朗阿佐ヶ谷スパイダース
廣川三憲(ナイロン100℃) 加藤啓(拙者ムニエル

原作は読んでいなかったけれど、世界観はとても近いようだ。冒頭、詩を作るのが趣味という侍が読み上げる奇妙な言葉がスクリーンへ映し出される。

紐を連続させたカーテンで、たて格子のように手前から映像を当てればスクリーンとなり、奥を光らせれば空間が浮かび上がる。光の強弱で場面を切り替えることが可能なため、とても素早い転換で映像を見ているようだ。

目の見えない娘が付き添う病弱な老人をいきなり切りつける浪人。人物の背後から小さな噴水が湧き、赤い照明でリアルな血しぶきとなる。光が戻ればただの水なので舞台は濡れているだけだ。ここでも素早いライティング操作により、驚く効果。

事態を見ていた藩の侍が浪人にかけより突然二人のコメディードラマが始まる。バタバタと二人がはけると、目の見えない娘は立ち上がり、狂ったように踊る。そこへスポットが当たり、同時に背景は映画のオープニンングのようにクレジット映像が流れる。

そんな前段の演出で、とても惹きこまれた。そのまま途中休憩をはさむ2幕で、3時間弱のデカダンスな大作だったが、飽きさせずぐいぐいと展開していく力強いお芝居だ。主演で、脚本・演出の山内圭哉は存在感もあり、関西弁(吉本なんですね)でコメディーとシリアスを行き来する巧みな演技だった。

パンク侍、斬られて候 (角川文庫)

パンク侍、斬られて候 (角川文庫)

カメレオン

カメレオン [DVD]

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なんだか昭和っぽい演出やセリフだと思えば、30年前に松田優作主演を想定して丸山昇一が脚本を書いたものだった。藤原竜也水川あさみ共にこのような映画としては力不足を感じたけれど、普段みられない演出で興味深い。

阪本順治は初期作品のインパクトが強すぎる。どついたるねん、トカレフ、新・仁義なき戦いなどがあまりにも素晴らしかったので、最近の作品にはどこか物足りなさを感じてしまう。

ただし、アクションシーンの作り込み、藤原竜也水川あさみロードムービー的な終盤、ラストのおどけるような政治家への仕打ちなど、随所に面白い場面もあった。とは言え、松田優作の映画として観てみたかったけれど。

松田龍平は『青い春』でも素晴らしい迫力だった。きっとこの映画も彼の方が適役だと思うけれど、絶対やらないのだろうなー。

コールハースは語る

コールハースは語る

コールハースは語る

コンパクトな本だけどいっぱいつまっていて面白い。なんだか以前に読んだゲルハルトリヒターのインタビューにも近いと思ったら、ハンス・ウルリッヒ オブリストだった。以下は全て引用文。

ワールド・トレード・センターは記念碑をつくるプロジェクトであって、ニューヨークが再びエキサイティングな都市に復活できることを証明するためのものではない。たが、CCTVはまったく違っていた。

今は非常に面白い時代です。つまり、われわれは伝統的な世界に住み、そこは独自の歴史、法律、需要がある。しかしその世界は、ことにグローバリゼーションやバーチャル化によって喚起され、まったく新しい一連の空間体験のなかにスーパーインポーズされているのです。

あらゆるレベルでノスタルジアが現代化を動かしているという、僕たちが生きているのはそういう逆説に満ちた時期であると認識したのです。それでいて、僕たちは歴史上の過去には何ら関心がない。

民俗学者たちは、ひっきりなしに消えさりつつある言語や文化、種族などを数え続けています。しかし実際のヨーロッパは。フラット化に対する強靭な反勢力であり、皮肉なことに多少の「非効率性」を飲んでも地域間の差異を守ろうとしている。

「文化的プロジェクト」というとらえ方は今や、非常に狭いものだと思います。なぜなら、文化も市場経済の一部になってしまったからです。市場がまだ完全に喰い尽くしていない領域は政治だけでしょう。

たとえば、ドイツで今やピザ屋と言えばたいていトルコ人が経営しているにもかかわらず、政治家が話をすると、移民はもっとドイツの歴史を理解し、ドイツのアイデンティティーに最低限の帰属意識を持つべきだ云々、となる。つまり彼らは完全に非生産的で反動的な考えしか持たず、部分的にはノスタルジアにもふけっている。

美術館というのは、その時代時代の建物がどうつくられているのかに対する批評ともなります。

僕自身の理論はこうです。中国が破産せず、通貨切り下げも行わなかったゆえに、資本主義世界を救った。つまり非常に逆説的なことですが、究極的には共産主義システムが資本主義システムを救済したのです。

僕にとっての中国的都市というのは、非常な短期間にたくさんのボリュームを建設した都市で、そのため都市が従来のような堆積作用を行うための必要条件である緩慢さをなくしたところです。この緩慢さは、われわれにとっては今でも都市を本物にするモデルなのです。

ゲルハルト・リヒター 写真論・絵画論

ゲルハルト・リヒター 写真論・絵画論

  • 作者: ゲルハルトリヒター,アミーネハーゼ,ヤン・トルンプリッカー,ペーターザーガー,ベンジャミンブクロー,ハンス‐ウルリッヒオブリスト,Gerhard Richter,Hans‐Ulrich Obrist,Amine Haase,Jan Thorn Prikker,Peter Sager,Benjamin H.D. Buchloh,清水穣
  • 出版社/メーカー: 淡交社
  • 発売日: 1996/04/01
  • メディア: 単行本
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アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

多くのパロディを生んでいるこの有名なタイトル。けれど、何故こんなタイトルなのか分からなかった。もちろん映画『ブレードランナー』は見ているのだけど、レトロフューチャー的な街並みとハリソン・フォードが出ていた程度しか覚えていない。今回この原作を読んで見なおしたくなった。

小説世界において「感情移入能力」というものが決め手となって、アンドロイドは人間と区別されている。ただしそれは脱走したアンドロイドを処理する主人公(賞金稼ぎ)をはじめとする一部の者にしか意識されていない。この微妙であまり世間に認識されていない(時にはアンドロイド本人ですら知らない)「差異」に基づいて、両者は決定的に主従関係にあるせいで、奴隷制度のようでもある。

一方で、この世界では自然が壊滅的打撃を受けているために、生物は昆虫一匹と言えども法によって厳重に保護されている。脱走したアンドロイドは発見即廃棄というのに。静かで文学的なせいか、ディックの小説は思考実験のようだと言われているけれど、まさにこの逆転したような関係はスリリングな状況をいくつも差し出してくる。

「感情移入」出来ることが人間のあかしであるのに、見分けるのが困難な、あまりにも人間らしい「アンドロイドへの感情移入」は許されない。他者への共感の度合いを測定するテストによて判定したとたん、目の前の「人間だった存在」を「機械」だと認識しなおす。そして殺す。それが賞金稼ぎの仕事であって、法律だ。主人公は、高価過ぎて模造でしか手に入らない「生き物」を(建前的に)愛でる。けれど本物を欲し、カタログを常に持ち歩く。

ほかにも「ムードオルガン」や「マーサー教」といった、感情を機械的に操るもの、アンドロイドによってつくられた共感宗教など、倒錯を膨らませる素材ばかりだ。そんないくつもの混乱した世界に読む側も翻弄させられる。それは、何故かどれも「あり得る景色」として現前されてくるせいで、翻弄させられるのだと思う。

自分の感情、その心の動きだけを信じて行動していこうとする終盤の主人公は、死生観を乗り越えていく一つの答えのようでもある。けれどそれは結論だけでは理解の出来ない、プロセス全てを共有することで体感され得る、「小説自体」のような貫禄あるものだった。

ランドスケープ 柴田敏雄展

k-michi2008-12-15

会場:東京都写真美術館
会期:2008年12月13日(土)→2009年2月8日(日)

美術館にはよくある「友の会」というシステムがあって、今回1400人程度の会員から事前希望により100人に向けてイベントが開かれた。学芸員柴田敏雄自らによる展示案内。公園で超望遠レンズを装備して野鳥を撮影してそうな老人から、友人たちをスナップしていそうな美術系の学生まで幅広い層が集まっていた。

安保闘争の頃、東京芸術大学の油絵学生だった柴田さんは、やがてベルギーの王立アカデミーで写真を始める。1992年・木村伊兵衛賞受賞、モノクロにこだわっていたが、5年前ほどからカラーを始めたという。大型8×10カメラを使い、精密なまでに細部を表現された写真は、ダムやコンクリートに覆われた造成地など人工的に変容された風景が多く、トリミングがとても絞られているせいで抽象的な絵画にも見え、日本的な風土を捉えているのにどこか普遍的でもあり、そんな作風が海外でも注目されているようだ(以下、メモは取っていないので本人の言葉は記憶に頼っています)。

油絵画家を目指していた点、アカデミーでの写真学、その後のモノクロへのこだわりなど、話を聞いたせいか、柴田さんの写真には一品作品としての重みが強く感じられた。例えば、モノクロに関しての言及。「モノクロは諧調の差異がとても重要で、この赤い橋のような写真はカラーを始めていなければ撮っていなかった」、「はじめに小さい印画紙へ焼き、次に大きくする段階で選定を行う、最終的に引き延ばす写真を選ぶにはあえて撮影から数か月、数年と、時間を置く」。一方カラーに関して、「カラーは焼き方へこだわらず、あくまでも見たままに表現されるようにしている」「色を重ねたりなどは一切行わない」。

どうやら、写真家にとって手作業で画を焼き付けていく過程とは、特別で不可欠な時間なんだと思った。「写真をはじめたきっかけは、誰でも何処でも出来る気軽さ」と言ってはいるが、一方で「デジタルに移行する気持ちはない」というあたりに、写真という作品に内蔵された、様々な時間・工程を愛しむ姿勢を感じた。直接現地へおもむくフィールドワーク、シャッターを押さないとはじまらない狩猟性、撮影から作品評価へとクールダウンさせるための時間、現像という編集プロセス。写真作品として、世の中へ出てくるまでに行われる過程を思い、再度作品を見て回った。

「海外で撮る写真は観光としての視点を避けられない」「文化の背景を知っている日本へ戻って先入観のない写真を撮りたかった」、「稲穂の連続した風景は、認識され過ぎている」「この写真は稲穂のリズミカルな点を見せたかった」これらの言葉からは、かつて自分の中で、写真を単なる広告や新聞のメッセージ媒体としか感じられなかった時期から、作品として自立していく認識の変化を思い出した。撮る側と同じような問題意識を持って写真を見ることはとても楽しい。